落書きの代償

世界遺産でもあるイタリアはフィレンツェの「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂」への落書き問題。

何かを批判するとか言う事ではなく、違った方向からの考えがあっても良いかな、と思う。



さて、槍玉にあげられた某大学の学生や高校野球強豪校の監督、果たして本当に今回のような社会的制裁を受ける必要があったのか?


少なくとも個人を特定出来る程の落書きであったのだから悪意は微塵もないだろう。
では、モラルがなかったか?
実は、モラルの欠如ではなく想像力が多少乏しかっただけでは?
もしそこに全く他に落書きなどなく整然とした場所ならば結果は違っていた筈。
そこに山ほど落書きがあって、想像力を欠いていれば誰にでも書く可能性はある。
メディアを通じて世間に晒されるだけで充分制裁を受けているのではないのか?
単純にタバコをポイ捨てする輩の方がモラルに欠けていると思うのは僕だけか?
処罰の判断を下す側、報道する側は、そこに深い思慮があったか否か。
上に書いたような疑問を抱かずにはいられないのは僕だけなのだろうか。



本筋から少しずれるかもしれないが、そもそも歴史的価値のある建造物と呼ばれるものが、殆ど形を変えずに存在すると言う事に関して違和感を感じる事自体おかしい事なのだろうか?それがたとえボロ屋であっても大切に扱われるべきである事は百も承知であるが、そう言う次元の話ではなく。雨風に晒されている、あらゆる形ある物は時間の経過とともに風化し、劣化し、朽ちる。しかし何百年、何千年前のものが歴史的価値と言う名の下に自然の摂理に反して修復を重ね存続させられる。修復ならまだしも、無くなってしまったものを復元すらしてしまう。こう言う事であれば、そこに存在するものは実は単なる虚構でしかないのではなかろうか。一度無くなってしまったもののレプリカをあたかも本物の様に扱い、劣化させないように保存しようとする。

また別の考え方をすれば、何千年前の落書きには歴史的価値があるのか、否か。もし何千年前のものに価値があるならば、今まさに現代と言う歴史の1ページを生きる人類たる我々は何千年後に何の価値も見出せないと言うのだろうか?本来の歴史的価値と言うのは、家の柱に毎年子供の身長を刻んでいくような、そのものから何かしら通ってきた様々な時代を感じられるものを残していく事なのではないだろうか。それが落書きであっても、それがその時代の痕跡である事に異論はないと思う。それを出来たその当時のままの状態であり続けさせようとする事の方がよっぽど不自然な事のように思えてしまうのは僕だけだろうか。


結局、そう言うものは綺麗に保たなければいけない理由があるのだろう。
歴史的観光名所、人間はそう言う場所にお金を落とす習性がある。

誰も見ないのであれば、薄汚れてようが、劣化してようが、ウンコが落ちていようが、ありのままで良い訳だし。



ちなみにイタリア人は今回の日本での社会的制裁をやり過ぎではないか、と言っている。
それを知ってイタリア人は心が広いと思ったなら、日本人は心が狭いと思ってるのと同じ事であるように思えるのだが、違うか。。



僕のような不如意に関して言えば、まずイタリアに行くという段階に達しない為、落書きのしようもないのであるが。泣