『蒟蒻畑』→『ケータイ』

久々のしりとりコラム。

漸く蒟蒻畑も発売再開されたようで何より。あとは消費者の心掛けひとつと言う事だ。

ケータイ、最近よく話題と言うか槍玉にあがるケータイ。
まさに世の中で携帯していない人を探すほうが困難なほどの普及率であり、非常に便利かつエンターテイメント性も高い。しかし精神的、肉体的にも、人体に影響を及ぼす事も承知の上で扱わなければいけないのも事実。橋下知事も公立学校でのケータイ廃止を訴えている。因みにボクは廃止賛成派。

さて、そういう是か非かの話しは置いといて、ケータイの機種って何か飽和状態と言うか出し尽くした感は否めないでもない。タッチパネルなど駆使した上、中身はほとんど超小型のパソコン化しているし、相当高い画素数のデジカメまで付いている。自分ならどういうケータイを欲するだろうと考えてみたい。

ここ数年、ボクの思考・嗜好のアナログ化は地球の温暖化より早いスピードで進んでいるようだ。エレキよりアコースティックを弾き、CDよりレコードを聴き、デジカメよりフィルムで撮り、ケータイより紙で読む。毎日の日記はブログではなく手書きで書いており、当然譜面は言わずもがな。ただ、髭はカミソリではなく電動(2枚歯)だけれども。まぁもともとボタンが沢山あるようなモノは苦手な性分なので今に始まったというワケではないだろうが、何となく行き過ぎている文明の発達に自ら歯止めを掛けると言うか逆行したいのだろう。実は人間が退化する事に少なからず抵抗感も感じているのかも知れない。

そんなワケでボクは多少面倒なくらいのコト、モノを嗜好していたほうが、結果的に達成感や満足度が高くなる気がするワケです。単なる自己満足とも言うのかも知れない。そんなボクが欲するケータイは木製でカマボコ板くらいの大きさで1〜9、*、#ボタンしかない至極シンプルなケータイ。画面はないから当然メールやカメラは不可。我々が高校生の頃ならメールと言えば単なる手紙でしかなかった。そう、だから手紙を書こう。エコブームだかなんだか知らないけど何でもかんでも電子化することがエコなんだったら人間の退化するコトをもっと憂いたほうが良いのでは。結局年賀状だってなくならないんだから。で、ケータイの相場を10〜30万円くらいにする。そうすれば小中学生は金持ちの子供しか持てない。その後、長い年月を経て初期に作られた木製のケータイは次第にヴィンテージ化していき、自然と価値の上がった初期ケータイの再利用が始まる。そんなケータイの市場を妄想すると面白い。それくらい既出の初期型ケータイには価値がない。それはそもそも創世記の時代背景に問題があったのかもしれないが、まず古いギターやカメラのような郷愁を漂わす佇まいがない。すでにそのフォルムが科学的恩恵に授かり過ぎているからだろう。
人間はどこまで科学を信用するのか。ボクは科学的に証明されたロジックに基づいた何かは事実であると言う認識はあっても100%信用はしていない。それよりは自然や人間を信用するだろう。例えば運転手さんの運転するバスでは熟睡出来るが、完璧に自動制御された安全な車と言われても運転手のいない助手席で寝ることは出来ない。人間の誤作動よりも科学的なモノの誤作動は許せないのだろう。恐らく善かれ悪しかれ無機質なものより有機的なモノを求めているからだろう。

おっと、閑話休題、ケータイの話しに戻りましょう。
最近大学生の生徒から聞いた話しだが、今「友達格差」なんてものがあると言う。ある一方では沢山の友人と楽しくランチを楽しみ、ある一方ではトイレに弁当を持ち込んで食べる人間がいると言う。これは由々しき事実だ。姜尚中さんの著者にもあったが人はつながりを求めていると。他者からのアテンションを認識していなければ生きてる意味が見い出せない、だから求めている。今若い人たちにとってケータイというものが友人とのつながりを持つ最大のツールになっている。ただ、それによって様々な不安に苛まれているのも確か。ボクは友達と言う定義がケータイのメモリーに入っているなんてコトになることを懸念している。出来ればもっと有機的なつながりをもって「友達」としていただきたい。