ミサワという生き方

先週の土曜に帰宅してから着替え、ようやく腰をおろして程なく、あるニュースが流れた。ボクはそのニュースの内容に耳を疑った。「人気プロレスラーの三沢光晴さんが収容先の病院で亡くなりました。46歳でした」。アナウンサーのあくまで情報のみを知らせるための業務的な声がその悲報を伝えていた。プロレス界に誉れ高き男、あのミサワが死んだ。

ボクは幼いころから親父とともに馬場の全日本「プロレス中継」猪木の新日本「ワールドプロレスリング」を見るのが毎週二度訪れる恒例行事、いや親父と共有出来る数少ない楽しみであった。小学生のころは馬場や猪木に鶴田、天龍や藤波、長州が対等する構図で世代交代を匂わせる時期だった。外国からは全日にハンセン、ブロディー、新日にアンドレ、ホーガン。全日本Jr.ではミルマスカラスが本場のルチャリブレで見事に宙を舞い、新日本Jr.で佐山聡タイガーマスクとして脚光を浴び、小林邦昭と死闘を繰り広げた。そしてその次の世代として現れたのが全日の三沢、川田、小橋、田上、新日の蝶野、武藤、橋本だった。時を同じくして新日を抜けた前田日明高田延彦等とUWFを立ち上げ、より格闘技色を強める今の格闘技ブームに繋がる新たなストリームが起こったのもその頃だ。その頃からボクは演出が派手でストロングスタイルの新日本に偏るようになっていた。佐山の後をつぐように二代目タイガーマスクを担った三沢にもマスクを脱いでからはあまり興味がもてなかった。中学の時、地元で興行があって行くのは新日本だった。入場してくるマサ斎藤の肩に触れたこと、リング下にいた星野勘太郎に話しかけたことを今でも記憶している。高校にあがるとプロレスに限らず、興味はすでに音楽一色だった。

そんなころジャイアント馬場が逝った。
そしてジャンボ鶴田も逝った。
全日本は一気に両翼を失った。
そして全日本の裏側では何か大人の事情もあったようだ。
そこで、全日本の主力が集まり新たな船出をしたのが「NOAH」だった。舵取は勿論二代目タイガーマスクだった当時の全日のエース三沢光晴

彼の人間的な素晴らしさ、人望の厚さを象徴していたのは、旗揚げの時に全日本のほとんどの選手が本体に残らず三沢についていったこと、その上、他団体の選手まで三沢を慕って加わったこと。そして三沢は社長としての仕事までこなしながらメインをはり続けた。時代は格闘技ブームへ移行しつつありプロレスラーが参戦しては負け、プロレス人気も下火になりつつあった。その頃のボクは深夜枠になったテレ朝系のワールドプロレスリングと日テレ系でのノアの中継が今年なくなるまで見れるときは出来るだけ見ていた。ノアはぶれる事なく馬場イズムを継承するプロレスをしていた。そして、大枚はたいてWWEの大物やK-1、総合の選手を呼んで俄プロレスをさせる新日本より純粋に自分達のプロレスを見せるノアが好きになった。色んな選手の三沢にまつわるエピソードで、三沢の情の厚さも知った。怪我をしたら休ませる。でも自分は休まなかった。社長でエースだったから靭帯切れても、骨が折れても、殴られ蹴られ絞められ投げられ続け、強烈な苦痛と重くのしかかる責任感に勝利し続けた。

そして死んだ。

実は、かなり泣いた。悼む、ボクは彼のような自分に厳しく他人に優しい人間が死ぬことについてムチャクチャに悼む。

ただ、男のハシクレとしてひとつだけ言いたい、

最期人生の幕引きまでプロレスラーとしてバックドロップでマットに散るなんて、

かっこ良すぎるよ、三沢光晴

自分が主役の舞台で死んでいける人間が世の中にどれだけいるだろう。

今の子供にはアニメなんかより生身の人間が戦うプロレスを見せて、痛みや苦しみを想像させ、三沢のような諦めず何度でも立ち上がりボロボロになりながらも最後に勝利する生き様を学んでほしいと思う。いじめられっこにも希望を持たせてあげられるんじゃないか。

プロレスはただドツキあったり蹴りあったりするだけの野蛮なものではないし、本気で顔面をグーで殴らない、関節技で骨を折らないからといって八百長をやっているわけじゃない。真っ当な人間がやるものである証拠として数々の暗黙のルールがあるだけなのだから。鍛えられた筋肉、美しい技、相手とのコンビネーション、友情、色んな要素を持った人間ドラマです。

ボクは親父とプロレスを見て育ってよかったと思っている。