ライブ情報

■12/26(sun)RUG TIME OSAKA
大阪市中央区心斎橋筋2−6−14アクロスビル4F TEL/FAX :06−6214−5306
チャージ\2,500
ジェニファー窪田(vo)、 トニー沼沢(org)、 リッチー尾 崎(g)、 スティーブ棟(ds)

昭和歌謡をジャズアレンジで演奏するライブです♪わたくしリッチーと言う名で出ております(笑)一緒にクリスマスの余韻を楽しみましょー☆

『ケツバットの未来』

「ケツバット」という言葉をご存知だろうか。野球経験のある方なら当然耳にしたことのあるフレーズだと思われるが、知らない人のために簡単に説明しておくと、野球部の練習でノックを受けていて、つまらないエラーをした時などに監督やコーチから臀部をバットで叩かれるという所謂古典的な体育会系の罰ゲームである。最近ではダウンタウンガキの使い年末恒例絶対に笑ってはいけない〜の罰ゲームでもお馴染みであり、日本人にとっては広く認知されているであろう罰ゲームの代名詞的存在だ。

ここ数日、何故だか妙にこの「ケツバット」という言葉がアタマから離れないのだ。
このアタマを悩ます要因として明確な理由がひとつある。それは、行為と語句との整合性の問題である。
「ケツバット」とは恐らく「ケツ」+「バット」と言う至極単純な日本語と英語を組み合わせただけの造語だと容易に推測出来る。だがしかし、ここでもしボクが罰ゲームとしての「ケツバット」に関して、予備知識及びなんの先入観もなく言葉だけを聞いたと仮定する。そういった場合、純然たる言語としての「ケツバット」からボクが連想するであろう光景は次の二つであると予想される。

(1)バッターボックスでお尻のような形状のバットを構える衣笠祥雄
(2)バッターボックスでバットの代わりにお尻を突き出す衣笠祥雄
(注:衣笠祥雄はあくまで便宜的な一例であり、各々好みによって任意の選手名を当てはめてご想像いただきたい)

いずれにしても尻状のモノ、乃至は尻そのものがバットの代わりになっている様子を想像してしまいそうだ。これではいくら鉄人・衣笠祥雄ほどの偉大なレジェンドを登場させたところで、ふざけているのにも程があるとしか言いようのない光景であり、熱狂的な野球ファンの方々からは野球への冒涜だと言われかねない。
近年、日本社会における価値観の変化に伴い、体罰に関する基準はかなり厳しいものになってきており「ケツバット」に対する世間の寛容さ、認知度も相当低下しているのではないかと予想される。とりわけ体罰に対する免疫が最も脆弱で、なおかつ言葉に敏感な若年層に対しての「ケツバット」発言には細心の注意が必要とされるワケだ。(1)はまだしも、(2)が「ケツバット」の共通認識となってしまうと、本来の「ケツバット」以上に悪しき罰ゲームとなってしまう。バッティングセンターのバッターボックスでお尻を晒す姿をよく見かける、なんて時代が来ることはそれこそ世も末、まさに狂気の沙汰だ。

外国人に伝える場合はさらに困難を極める。ボクのように稚拙な英語力しか持ち合わせていない人間が「ケツバット」を直訳しようとすると「ケツ=butt」「バット=bat」つまり「バット バット」になってしまうのだ。こういった場合相当慎重かつ高度な発音が要求されることになる。最悪の場合「ケツ ケツ」と伝わってしまいかねないのだ。「ケツ」を連呼する大人が目の前にいたとすればかなりヤバイ空気を漂わせているはずだ。もし菅首相オバマ大統領に対して愛嬌たっぷりのニヤケ顔で「オバマさん、思いやり予算増額なんて言ったらケツバットしちゃいますよ♪」と言いたかったところを「オバマさん、思いやり予算増額なんて言ったらケツ ケツしちゃいますよ♪」と伝わってしまったらオバマ大統領は菅首相、いや日本人の国民性に相当な不信感を抱くに違いない。なまじオトコ同士の場合だと男色的な意味にとられないとも限らない。「ケツバット」が原因で日米関係が悪化しかねないわけだ。

野球と下ネタの狭間で様々な思索に耽り思い巡らせたにも関わらず「ケツバット」に対して依然として疑念を拭い切れなかったボクは万策尽き、とうとう禁じ手を使うに至る。日本が誇る知恵袋、キングof百科事典・広辞苑で「ケツ」を調べるしか打つ手がなかった。そして、広辞苑の「ケツ」のページを開いたボクは目を疑った。「ケツ」に関する驚愕の事実を知ることとなってしまったのだ。
実は「ケツ」を漢字で書くと「穴」だったのだ…
まさかの事態にボクは平常心を保つことが出来なかった。物心ついた頃から「ケツ」を臀部のことだと思い込んでいた自分を激しく恥じた。「ケツ」がむしろ穴の部分を指していたとは、自分の浅学さを改めて痛感させられた。長年信じていたものが、まるで倒壊するビルの如く一瞬にしてもろくも崩れ去っていったのだ。
それを知った上で「ケツバット」を改めて鑑みる。するとどうだろう「ケツバット」がとんでもなく恐ろしい行為に感じられてくるではないか。漢字交じりで表記するならば「穴バット」である。これではもう罰ゲームなどという生ぬるいものではなく、背筋が凍るほどの極悪ワードとしか言いようがない。もはやありふれた根性論や青臭いセンチメンタリズムの入り込む余地などないのだ。罰ゲームというより、むしろSM等をイメージさせるような、ある種の冷酷さや異常な性癖を含んだものを感じさせてしまう。もし仮にボクが野球部の練習でミスを犯し、その報いとして「ケツバット」ならぬ「穴バット」を強要されるのであれば、なんの躊躇もなく即刻退部届を提出することだろう。ボクにはその屈辱や痛みに耐え得る自信がないし、そういった類いの趣味もない。

こうして「ケツバット」を自分勝手に拡大解釈してみると、ボクは、世の中から「ケツバット」を排除しようとする社会を危惧している自分に気づいた。知らず知らずのうちに「ケツバット」はブラックボックスに陥っていたのだ。そのうち、すっかり存在感を失ってしまった「ケツバット」の一人歩きがはじまり、ひょっとすると百年後には全く形を変えてモンスター化してしまうかもしれないのだ。

長々と「ケツバット」について語ってきたが、色々調べる中である素敵なブログに出会ったので文章の一部を抜粋、要約して最後に紹介しておきたい。

『バットで叩かれるときには、お尻をひっこめるのではく、突き出していったほうが痛みが少ない。嫌だなと思って腰を引くと、バットで叩かれたときのダメージが大きいけど、何をと思って腰を突き出すと、力いっぱい叩かれても痛さが軽減するらしい。
自分が、「嫌だな」「苦手だな」と感じていることから目をそらしていると、知らない間に嫌なことや苦手なことが大きく重くのしかかってくる。こじらせるとウツになるかもしれない。
そんな状況を解決するには、テントの屋根にたまった雨水を下からつついて流しだすように、横の席からはみ出してくる肥満気味の人に軽く肘を当てて侵食を止めるように、ちょっとした力点が必要だ』


これを読んで「ケツバット」の未来は明るいと確信した。

「無頓着、しかし無関心でなく」


先日、中之島国立国際美術館へ「マン・レイ展」を観に行って来ました。

ボクがマン・レイに関心をもったのは、やはりカメラを始めた二年半程前だったと思います。写真家であり画家であるマン・レイポートレートをはじめとする写真家としての方が圧倒的に有名ではないかと思うのですが、後年は写真を辞め画家としてこだわり続けたようです。

それほど知られていないと思うのですが、マン・レイの手掛けた映画も上映されていました。シュルレアリスムの古典とも評される彼の映像は非常に抽象的で、ボクのようなアート貧困層にとってはかなり難解なものでしたが、二十世紀前半にこれほどまで高度な映像の技法を操れるということには浅学ながらも驚きでした。やはり写真家としての露出や構図諸々の技術が映像にも生かされているんでしょうね。
とにかく、目前に存在するリアルな写真、絵画、映像はどれも理屈を必要としない圧倒的な芸術性を感じさせてくれるものばかりでした。

マン・レイと彼の妻ジュリエットの眠る墓石にはこう刻まれているそうです。
"Unconcerned But Not Indifferent"
「無頓着、しかし無関心でなく」


マン・レイ
2010年9月28日〜11月14日 国立国際美術館

『北野武 ニッポンの問題点を語る(下)』

先週の続きです。

北野武 ニッポンの問題点を語る(下)』
「政治とカネだって、相撲で問題になっている暴力団とのつながりだって、日本社会そのものが、なあなあでもってきたのは間違いない。メディアも、大きなものに対して闘うと言っている割には、広告主に対してはずいぶん弱気だったりしてね。最近はそれがばれちゃってるんで、メディアに対してみんなの意見が冷たいんじゃないですかね」
「映画の世界もひどいね。日本のアカデミー賞なんてのは、大手の映画制作会社の持ち回りだし、独立プロははじかれるんですよ。映画評論家も記者も、ときには悪口を書いたり、冷たいことも評論しなきゃいけないのに、宣伝したりほめる人間しか、映画会社は呼ばなくなっている。変な癒着があって、腐ってきちゃってる」
「政治もそう。政権交代のときにマニフェストが話題になってたでしょ。おれはね、高速道路無料化なんて絶対できないって言ったの。民主党のあの人たちを見て、どうしてできるんだって」
「鳩山さんはたとえば、町内で暴力団に金払っても町はうまくいってたのに「この町に暴力団はいらない」と言う町内会長みたいなもんだった。悪人になれなくて、ちっちゃな善人になろうとすると、みんなああいう轍を踏むんですよ。だって基本的に政治家ってのは、多数の人間を殺す可能性がある戦いにまで、主導権を取る人なんだから、小さな善なんて言ってる場合じゃない。大善人やるなら(インド独立の父)ガンジーやるしかないじゃないですか」
「おれがいろんな冒険をしてるように見えるのは、映画があったり、テレビがあったり、役者があったり、逃げ場所がいっぱいあるからですよ。こっちでいじめられたら、あっちの穴に逃げちゃおうと、いつも考えてる。それが冒険に見える」
「交通事故起こして以来、残り時間なんて全然考えないね。今日、もし余命一ヵ月と言われても、そのまま仕事やって生きる自信あるね。若い頃からなぜか、63歳くらいでくたばるかと思ってて、その年になったけど、ここんとこ仕事の調子のがいいんで、下手するとあと10年くらい生きちゃうかな」

コリコリと国語ノートに書き留めておきます。ペンだこはまだまだ出来そうな気配ナシです。。

『北野武 ニッポンの問題点を語る(上)』

とっても久しぶりのエントリーになってしまいました。。近しい方からもこの廃墟状態のブログをどうにかしろという旨のお言葉を頂戴しましたので、少なくとも月に数回は書こうと思います。

今春のiPod購入からほぼ毎日、無料購読出来る電子版の産経新聞をダウンロードしています。基本は紙派なので紙媒体で別紙も有料購読しております。

その産経新聞の昨日の文化欄に天才・北野武さんが興味深いコメントを寄せてらっしゃったので載せておきます。

北野武 ニッポンの問題点を語る (上)』
「コンピューターは嫌い。メールも嫌い。携帯電話は車の中にあるけれど出たことない。ツイッターだって、冗談の言い合いをしたり、遊ぶんならいいけど、あれを情報として扱っているバカさ加減はよく分からないね」
「情報って、町を歩いていれば入ってくる。テレビとかなるたけ見ないようにしても、なおかつ入ってくる情報は正しいと思う。でも、今の人たちは情報を探しまくるんです。自分で追いかけるから、たどりついた情報はたいしたことなくても、すごい情報だと思ってしまう」
「情報ってだれかが出してるんだってことですよ。広告代理店はじめ、いろんなところが、次はここにいかないといけないとか、流れを作っていくわけですよ。それにみんな家畜のように、檻から檻へと動かされている。その構図が格差を生んでいるのに気づいていない」
「今の日本って、品がいいとか悪いとか言わなくなったね。おれらが子供のころは、そば屋に行列するとか立ち食いとかは恥ずかしいという感覚があったけど、今は、みんな立ってものすごい勢いで食べてる。どうしてこう下品になったか」
「電車の中の化粧なんて、酔っぱらいの立ち小便と同じようなもんだけど、平気でするようになっちゃった」
「貧乏を貧乏の中に封じ込めて、その中で金を回すという商売が多すぎるんだよ。服でも食べ物でも、安売りの品だけを買ってたり、安くて早くてという所に並んでばかりだと、絶対上に上がれないよ。3回食べるのを我慢して1回にしなさい。その代わり千円のやつをゆっくり食う。服も同じ。昔の教育はそれを教えてたはずなんだけど」


ボクは団塊の世代であるたけしさんの子供の世代、団塊ジュニアにあたると思いますが、世代を超えてかなり共感します。こう言う見識ある大人が多くいる世の中であって欲しいものですね。経済的貧困・学力低下も勿論看過出来ない問題ですが、根本には、しっかりとした精神性の欠如や無教養さが見え隠れしているように思います。後者さえしっかりしていれば部屋に置き去りにされるような子供も減らせるんじゃないかなと。恥も外聞も気にしない、責任を簡単に放棄してしまうような短絡的で刹那的生き方こそ最終的に何もかも手放すことになってしまうんではないかなと、ボクは思います。と自分に言い聞かせます。

ライブ情報

◆『ULTIMATE SUPER SESSION』
6/13(sun) 天満Raw Tracks 06-6358-0005
開場:17:30 開演:18:00 前売\2,500 当日\3,000(Drink別)
菅沼孝三(Dr)、園田涼(Key)、西尾"Bun"博文(B)、尾崎タカオ(G)
(O.A.)Groovy

憧れのドラマー菅沼孝三さんとご一緒させていただきます。他メンバーも豪華。東京で大活躍中の気鋭キーボーディスト園田涼さん、プログレから演歌までこなす同郷ベーシスト西尾"Bun"博文さん。
当日お越しの方も受付にて「尾崎の知り合いです」と言って頂ければ前売り料金でご入場いただけるようにしときます。